高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。紐が切れたのだという。その紐を手にしながら、ふと遠い記憶の蓋が開いた。

昭和の子供の放課後は、今とはまるで違う世界だった。
ランドセルを家に放り込んで外に出ると、近所の空き地には学年もクラスも関係なく子供たちが集まっていた。誰かが仕切るわけでもなく、気がつけばチームに分かれて野球が始まっている。そういう時代だった。
野球のルールを教えてくれたのも、プレーを褒めてくれたのも、みんな上級生だった。今でいう「地域の子育て」が、あの空き地では自然に成立していた。
ある日、先輩のひとりが使っているグローブが目に入った。
一目見た瞬間に、全身が反応した。あれが欲しい。
青地に白糸。カップ型に刺繍されたマーク。後から知ることになるが、それが「美津濃(ミズノ)青カップ」だった。軟式用が青、硬式用が赤。昭和の野球少年なら誰もが憧れた、あのグローブだ。
まず向かったのは、イトーヨーカドーに入っていたスポーツ店だった。しかし置いていない。
今のように大型スポーツ専門店があちこちにある時代ではなかった。どこに行けば買えるのか、小学4年生の自分には見当もつかなかった。
そこへ転機が訪れた。同じグローブをすでに買ってもらったクラスメイトが現れたのだ。うらやましさで胸がいっぱいになりながら、とにかく聞き出した。メーカーはどこか。どこで売っているのか。
教えてもらった店は、自転車で20分ほどのところにあった。ドキドキしながら扉を開けると、店内にはミズノのグローブがずらりと並んでいた。あの青カップもあった。手に取った瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
| メーカー | 美津濃(ミズノ) |
| マーク | 青カップ(軟式用) |
| ウェブ | タータンウェブ |
| 種別・価格 | オールラウンド用・7,800円 |
帰宅して母に話した。「あのグローブが欲しい」と。
当然、即答はなかった。しかし母はこう言ってくれた。「パートのお給料日まで待っていてね。」
7,800円。昭和の専業主婦がパートで稼ぐ金額の重さが、大人になった今にはわかる。それを出してくれるということが、どれだけのことだったか。
それからの毎日が、我ながら笑える。
放課後になると例の店へ自転車を走らせ、グローブを手に取っては棚の奥深くに押し込んで帰る。他の誰かに買われてしまわないように。それを給料日当日の夕方まで、毎日続けた。
そしてついに、その日が来た。
母のパート先の前で、仕事が終わるのを待ち構えた。そのまま二人で自転車を走らせ、店へ向かった。
店主のおじさんは僕の顔を見るなり、すぐに覚えていてくれた。毎日確認に来ていたのだから当たり前といえば当たり前だが、おじさんも一緒になって喜んでくれた。昭和の商店街には、そういう温かさがあった。
美津濃。青カップ。タータンウェブ。オールラウンド用。7,800円。
あの日グローブを手にしたときの感触は、半世紀近く経った今も手のひらに残っている。
あの頃から今まで、いくつものグローブと出会ってきた。どれも、それぞれに大切な記憶として胸の奥にしまってある。
先日、高校2年の息子にキャッチャーミットの修理を頼まれた。その紐を手にしながら、ふとあの空き地のことを思い出した。上級生たちのこと、クラスメイトのこと、そして母のパートのお給料日のことを。

今、グローブを通じて息子と関わっていること。それが、また新しい宝物になっていく気がする。