今日は母の日だ。

5月の第2日曜日。店先にカーネーションが並び、テレビのCMが「お母さんへの感謝を」と呼びかける、毎年やってくるこの日。

今年の母の日は、少し違う気持ちで迎えている。

母が入院しているからだ。

今年88歳になる母は、今、病院のベッドの上にいる。容態は楽観できない。だからこそ今日という日が、いつもより少しだけ重く、そしてあたたかく感じられる。


一人の少女の「ありがとう」から始まった

母の日の始まりは、20世紀初頭のアメリカだ。

1905年5月9日、アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスという女性の母が亡くなった。母は生前、南北戦争で傷ついた兵士たちの看護に人生を捧げた人だった。アンナはその母をしのんで教会に白いカーネーションを飾り、「生きているうちに母に感謝を伝える日を作るべきだ」と訴え続けた。

その想いがアメリカ中に広がり、1914年、ウィルソン大統領が5月の第2日曜日を「母の日」として国民の祝日に定めた。

日本には大正時代にキリスト教を通じて伝わり、昭和12年(1937年)に森永製菓が「森永母の日大会」を大々的に開催したことで全国に広まった。そして戦後の昭和24年(1949年)ごろから、5月の第2日曜日が定着した。

一人の少女が亡き母に手向けた白いカーネーションが、海を越えて昭和の子どもたちの手にも届いた。


昭和の子どもと、カーネーション問題

昭和の母の日に、子どもたちを悩ませたことがあった。

カーネーションをどうやって渡すか問題だ。

学校ではこの時期、図工の時間に赤いカーネーションを折り紙や画用紙で作ることが多かった。または近所の花屋で本物を買う。問題はその先だ。

「はい、これ」と無造作に渡せれば苦労はない。でも昭和の子どもにとって、母親に面と向かって「いつもありがとう」と言うのは、気恥ずかしくてたまらないことだった。

テーブルの上にそっと置いておく。気づかれないうちに花瓶に差しておく。そういう作戦を取った子どもは多かったはずだ。母親はそれをわかっていて、わざと気づかないふりをして後で「あら、かわいい」と言ってくれる。その距離感が、昭和の親子の間にはあった。

思えば、照れくさくて言えないことを花が代わりに言ってくれる──それがカーネーションという花の役割だったのかもしれない。


テーブルの上の100円玉と、母の背中

昨日の記事で、こんな話を書いた。

学校から帰ると、パートに出ていた母の姿はない。テーブルの上に「おかえりなさい」という手紙と100円玉が2枚。1枚は私の分、もう1枚は妹の分。

あの頃、母がどんな思いでその100円玉を置いていたか、子どもの私には考えも及ばなかった。ただ嬉しくて、握りしめて飛び出していた。

でも母の日になると、ふと気になった。お母さんは今日も仕事に行くのだろうか。疲れていないだろうか。毎日毎日、子どもたちのために働いて、帰ってきてご飯を作って、洗濯をして。それが当たり前の風景すぎて、当たり前すぎることに気づかなかった。

カーネーションを買いに行ったのは、母の日の朝だった。近所の花屋で赤いカーネーションを1本選んだ。帰ってきた母に、うまく渡せたかどうか、正直あまり覚えていない。たぶん「はい」と差し出して、母が「ありがとう」と言って、それで終わりだったと思う。

でも母は、そのカーネーションをちゃんと花瓶に差して、しばらく飾っていた。


88歳の母へ

あれから何十年が経った。

母は妹の最初の出産を機に、妹夫婦と同居するようになった。3人の孫に囲まれた暮らしの中で、妹の子どもたちだけでなく、私の子どもたちも合わせて8人の孫を可愛がってくれた。

昭和の時代に私たち兄妹を育て、平成を生き、令和になっても孫たちの笑顔の中心にいた。そんな母が今年、88歳になる。

今、母は入院している。病室のベッドの上で、今日の母の日を迎えている。容態は、楽観できるものではない。

それでも──いや、だからこそ、今日ははっきりと言いたい。

私たち兄妹を育ててくれて、8人の孫を可愛がってくれて、本当にありがとう。

私はあなたの子どもで、本当に良かった。

照れくさくて昭和の子どもの頃には言えなかった言葉を、57歳になった今、この場所に書いておく。


おわりに

母の日に母親が健在であれば赤いカーネーションを贈る、という習慣がある。アンナ・ジャービスが白いカーネーションから始めた母の日が、日本では赤と白という形に引き継がれた。

今日、赤いカーネーションを贈れる人は、ぜひ贈ってほしい。

照れくさくてもいい。うまく言葉にならなくてもいい。昭和の子どもたちがそうだったように、花がきっと代わりに言ってくれる。

あなたのお母さんの、あの頃の背中を、今日だけ少し思い出してもらえたら嬉しい。