今日は5月11日。

昭和の朝には、決まったリズムがあった。

目が覚めると台所からご飯の炊ける匂いがして、テレビをつけると子ども番組が始まっている。朝ごはんを食べながらテレビを見て、時計の代わりに番組の流れで時間を感じていた。

あの頃の朝のことを、今日は書きたい。


朝ごはんとピンポンパン

朝ごはんを食べながら見ていたのが、フジテレビの**「ママとあそぼう!ピンポンパン」**だった。

昭和41年(1966年)10月3日から昭和57年(1982年)まで、実に15年半にわたって放送されたこの幼児番組は、フジテレビの若手女性アナウンサーが「おねえさん」として司会を務める形式で、歌や体操やお話のコーナーが続く、朝の子どもの定番だった。

お茶碗を両手で持ちながら、画面を眺めていた。おねえさんが歌う。カッパのカータンがとぼけたことを言う。子どもたちが体操をする。

朝ごはんを食べながら見る番組というのは、不思議と記憶に残るものだ。おかずの味と、テレビから流れてくる音楽と、台所で動く母の気配が、全部混ざり合って一つの記憶になっている。

そして番組のフィナーレに、あれがあった。

「おもちゃへいこう!」

新兵ちゃんの掛け声とともに、スタジオに出演していた子どもたちが一斉にスタジオセットの大木へと突進していく。「おもちゃの木」の節穴の中には、おもちゃがぎっしり詰まっている。子どもたちは我先にと手を伸ばして、おもちゃを抱きしめる。

テレビの前で、それをただ見ていた。

本当に羨ましかった。

昭和40年代の子どもにとって、おもちゃは誕生日かクリスマスの「特別なもの」だ。駄菓子屋で10円のお菓子を買うのとは、まったく違う話だ。だからあの木が眩しかった。「ねえ、ピンポンパン出たい」と母に言った子どもが、日本中に無数にいたはずだ。


「ぱたぱたママ」が流れたら、保育園の時間

ピンポンパンが終わると、続いて始まるのが**「ひらけ!ポンキッキ」**だった。

昭和48年(1973年)4月から始まったフジテレビの幼児番組で、ガチャピンとムックという2体のキャラクターと「おねえさん」が進行する、こちらも昭和を代表する子ども番組だ。「およげ!たいやきくん」を世に出した番組としても知られている。

ポンキッキが始まると、それが保育園へ行く時間の合図だった。

番組の最初のほうに流れていたのが**「ぱたぱたママ」「一本でもニンジン」**。のこいのこさんが歌うこれらの曲が聞こえてくると、「そろそろだな」という感覚があった。

「いちほんでもにんじん、にほんでもにんじん、さんぼんでもにんじん……」

そのメロディーを1曲聞き終わると、母の声がかかった。

行くわよ

玄関に向かう。年子の妹も一緒だ。外に出ると、母が自転車を出して待っている。後ろの荷台と前のカゴ、あるいはハンドルにまたがるようにして、3人で乗り込む。

3人乗り自転車

今の感覚では「危ない」と言われるが、昭和の頃はそれが当たり前だった。お母さんが自転車をこいで、子どもを前後に乗せて保育園や幼稚園に連れて行く。朝の住宅街には、そういう自転車がたくさん走っていた。

母の背中に顔をうずめながら、自転車が走り出す。まだテレビの音が耳の中に残っていた。「ぱたぱたママ」のメロディーが、頭の中でまだ続いていた。


阿久悠と小林亜星が作った朝の歌

「ピンポンパン体操」はオリコン童謡チャート1位、260万枚の大ヒットを記録した曲だが、その作詞・作曲を手掛けたのが阿久悠小林亜星というコンビだ。

当時の日本を代表する作詞家と作曲家が、子ども番組のために本気で曲を作っていた。「トラのプロレスラーはシマシマパンツ……」というあの歌詞は、今も口をついて出てくる人がいるはずだ。

「ひらけ!ポンキッキ」の「ぱたぱたママ」や「一本でもニンジン」も同様だ。一見シンプルな子ども向けの歌に、プロの作り手たちが真剣に向き合っていた。だからこそ半世紀経った今も、あのメロディーは記憶の奥底に生きている。

子どもの頃に耳に入った音楽は、言葉や映像よりも深いところに刻まれる。「ぱたぱたママ」が流れると、今でも反射的に「そろそろ行かないと」という感覚がよみがえる。頭ではなく体が覚えているのだ。


おわりに

ピンポンパンのおもちゃの木を羨ましく眺めて、ポンキッキの「ぱたぱたママ」を聞きながら保育園へ向かった。母の背中に揺られる自転車の上で、テレビから流れてきた歌がまだ耳の中に残っていた。

毎朝、毎朝、同じことの繰り返しだった。

でも今になって思う。あの繰り返しの中に、昭和の朝のすべてが詰まっていた。朝ごはんの匂いと、テレビの音楽と、母の「行くわよ」という声と、年子の妹と一緒に乗り込んだ自転車の揺れ。

それが私の、昭和の朝だった。

あなたの昭和の朝には、どんな音楽が流れていただろうか。